多文化共生社会の構築について思うこと
長らく原子力を起点とし科学技術リスクの社会的影響や政策分析や組織的・社会的なガバナンスを研究してきた門外漢の私も,編集委員会の一員として様々な識者の問題認識や講演や議論を傾聴してきて,耳触りの良い「多文化共生社会」構築の実相は実に厄介な問題(wicked problems)だと思うに至っている。しかし,編集委員会を通して様々な取り組みがなされていることを知るなかで,多文化共生社会は活気溢れる社会であり,その構築は追求する価値があるものだという思いも強くした。
今回のテーマは「科学技術×多文化共生」である。現代の社会生活や思考は,科学技術の知見を抜きには語れない。科学技術と社会はダイナミックな相互作用関係にあり,相互連結・依存する社会の諸活動には,多様で複雑な利害関係が存在し,そこには多様なリスクと便益がある。今,人工知能や生体認証やブロックチェーンやメタバースなど新たな技術が,社会的課題の解決に向け次々に社会に導入されつつあるが,それらが内包するリスクの全容は解明されておらず,またそれらの技術は組み合わさって活用されるため,予期せぬリスクが生まれてくる可能性をもつ。言うまでもなく,先端技術の科学的知識には大きな不確実性が存在するし,その利用形態にも大きな不確実性がある。加えて,科学的知見については解釈的曖昧性が常に存在し,技術がもたらすリスクの受忍性や受容性といった価値判断に関わる規範的曖昧性はその開発利用において大きく作用してくる。そして,このような科学技術の急速な進展に社会,特に規制政策や社会制度が追いつけていないという状況がある。
先端科学技術の利活用は,多文化共生社会の実現で直面する諸課題にどのように関われるのか。今号では,是川夕氏,南澤孝太氏,岸本充生氏による鼎談が行われているので,是非考えてみていただきたい。私は,トランス・サイエンス問題,『科学的に問うことはできるが,科学によって答えることはできない問題群』に行き着くと思っている。こうした問題群は,科学技術的な問題でありながらも,それで尽きるものではなく,倫理や政治,経済,社会など他の観点からも検討し,最終的には社会の価値選択として結論を出さなければならないと思っている。
私は,JCOの臨界事故以降,東海村でリスクコミュニケーションのNPO活動に関わってきた。リスクコミュニケーションとは,対象が内包・惹起するリスクに係わる情報・データを直接間接に関わる人々・組織の間で相互に要求・提供・説明し合い,共に考え,関係者全体が問題や行為に対する理解と信頼のレベルを上げて,問題の改善やリスク削減を図っていく行為である。対話・共考・協働は,言うは易し行うは難しだが,多文化共生社会の構築でも核となるものだと思う。村民や役場や原子力事業者や規制機関や研究機関などとの対話・共考・協働を通して実感したことは,市民は“専門家はそう言うけれど,それは正しいかもしれないけれど,何となく割り切れないものがある”という感覚を持ち,半信半疑の状態の“わからない”があるように思う。複雑化した科学技術社会においてはこの種の“わからない”が多くなりつつあるのではないだろうか。“全体像がわかる”,“筋が通るとわかる”ためのコミュニケーションが少ないのではないだろうか。原子力技術の安全やリスクについて対話しようとしても,まずは原子力技術を利用する社会とは,原子力と社会の乖離がもたらすリスクとは,といった全体像を掴み,話がつながったと思う心的な状態に至るための対話努力が必要である。このことは多文化共生の問題も同じではないかと思う。この複雑な問題を可視化し全体像を提示していくのが本ジャーナルの主たる読者である専門家の役割ではないだろうか。本ジャーナルはそのプラットホームである。
ルビンのツボ(だまし絵)が意味するところは,同時に認識できない,どちらかに視点を置くかで見えるものが変わってくるということである。そして見る側の立ち位置によって,同じものも違って見える。また,実線(部分)だけを見たときと,実線・点線(全体)を見たときでは,同じものが違って見える。すなわち部分から全体へと視野を広げると別のものが見えるということである。多文化共生について,「視点」「視座」「視野」を変えて考えることが必要だと思う。
世知辛い世の中になったと日々実感する。複雑化する社会に蔓延する諦観や厭世観や政治への不信感が,平時からの共助に対する消極姿勢や忌避意識そして人々の思考停止を助長しているが,平時からのリスクコミュニケーション(対話・共考・協働)の継続的実践を通して,無作為や思考停止の帰結を想像し,リスクの受忍レベルを探り,覚悟(備え)の大切さを腑に落とし,個人的能力(ネガティブ・ケイパビリティと心理的レジリエンス)の獲得を促すとともに,平時からの共助意識を醸成することが重要ではないだろうか。
DEI(多様性,平等性,包摂性)は多文化共生社会の基盤であり,そこには基本的人権の保障が通底すると私は思う。完全なDEIは不可能だが,それに向けて努力する価値はある。理想と現実の間のギャップを冷静に見定め,現実的な目標を設定して行動する,両者のバランス,折り合いをつけながら理想の姿に向かうための議論が望まれる。