躾教育で共通ルールを学ぶことが必要
押川:
アメリカの最先端の地域では幼稚園までで将来が見えるという説もあり、技術革新の中心であるシリコンバレーでさえ、押し寄せる大変化の時代を子どもが生き抜くために、どのような教育を授けるべきなのか、親や大人たちが集まって激論を交わしています。世界レベルで見たときには、幼児教育や英才教育はそれほど熾烈な戦いに向かっています。一方日本では、昔は、寺子屋のように勉強だけではなくて礼儀や作法、掃除なども躾けるなど、伝統的に躾教育が幼児教育において大きな役割を果たしていました。これが日本の法律だけでなく倫理や道徳などの共通ルールを守ることにつながったと私は思っています。それは非常に貴重な文化でした。しかし現代においては、子どもや家庭の自主性が重んじられ、例えば幼稚園のような場でもそういった躾の機会が奪われています。
また、アメリカでは幼児教育のストレスに負けて勝ち残れない子どもには、勉強の代わりにスポーツや芸術など別のチャンスを与えるそうです。それで子どもを引き上げようというカルチャーがあります。一方日本では、英才教育となればつねに勝ち抜き戦で、ずっと勝ち続けなければいけない。日本では英才教育となるとそればかりの情報、そのための対策、環境など、恐ろしく不健全に特化してしまっています。英才教育が合わない子どももいるわけですが、そうした子どもへのケアがない。多様性を考慮していないと思います。
その一方で、集団の場でじっとしていられない子どものことも、個性のひとつとして許容しなければいけないという風潮があります。もちろん障害などでどうしてもじっとできない子どももいますが、せめてその中でも共通のルールを守ることができるという躾をしておかないと、大人になってから社会生活ができなくなるし、そのまま成長したときには、対応困難な患者として治療を受けられないことになりかねません。さらに付け加えると、家庭の中に法の基準がない家族が増えたと思います。親が子どもの違法行為を見て見ぬ振りをしたり、嘘をつくことや親のお金を盗むことなどに厳しく対応をしていないのです。そうした家庭では、親自身も法に触れるような行為をしています。
例えば相続に関して法に基づいて対応せず家族のやりたいようにやってきているとか、犯罪に加担する形で資産運用しているなどです。そのような親の背中を見て育った子供は、欲求への執着が強く衝動的に暴力行為に走るなど、心のバランスを崩すだけでなく、犯罪へのハードルも低くなっています。私たちは相談を受けると、家族の背景をつぶさにヒアリングします。患者さんである子どもが40~50代になっているケースでは、その親は身体を壊したり認知症を患ったりしていて動けず、きょうだいが相談にやってきます。多少の資産がある家庭では、患者さんに後見人をつけるなど法律的に保護して支える必要がありますから、親の資産の有無や相続についてもヒアリングをします。すると、法的手続きをとらずに家族の裁量で曖昧に進めていることがあります。中には、精神疾患のために正常な判断ができない患者さん(子ども)の名義を使って、法的に問題のある相続手続きなどを行っているケースもあります。そのことは、きょうだいもうすうす気づいていますが、法律を基準に物事を考えるように躾けられていないため、「収入が得られる」と聞けばよしとしてしまい、深く考えていません。気がついたときには、収拾がつかない状況に陥ってしまうのです。
ですから第一に法律を守るという部分での躾、「これは絶対にダメだ」ということを躾ておかないといけないでしょうね。そのままの感覚、価値観で大人になってしまうと、あらゆるルールを守ることがもう無理になってしまうのです
2003年に出版された「10代の子どもと対話できる本」は、
後に出版された「子どもを殺して下さいという親たち」の親御さんたちが
この本に出会っていればわが子の「死」を望むことがなかっただろうと思います。
その本の中で、「心の筋肉が弱い」お子さんは「死」ということを
考えやすいと書かれていますが、具体的な見分け方や、
どのような「サイン」がでたら危険信号なのでしょうか。
親が子どもを隔離する危険
押川:専門家と言われている人や大学の教授の多くが、実は最先端の現場を見ていないです。特に家族の問題は、なかなか他人には見させてもらえない。専門家が分かったように言っていても、私には明らかに嘘だと分かります。家族は「恥」だと思ってできるだけ隠しますから、私のように問題解決のために家庭に入るか、事件になってから入った警察しか見ていないんです。「10代の子どもと対話できる本」は、私が現場を見たからこそ書けた本です。10年以上が経った今、ご質問のように「この本を読んでいたら防げたのでは」ということは本当にそうですね。この本に書きましたが、日本は親子が共依存の関係になっているケースも多く、子どもの自立が根付いていない国であるからこそ、欧米のようなスタイルで子ども部屋を持たせるのは良くないんです。ひきこもりができやすくなってしまうんですよね。
最近は地方でも、タワーマンションや分譲マンションが大流行していますが、この生活環境も、第三者の介入を難しくしている一因です。たとえば子どもが長期にわたりひきこもり、家族への暴言や暴力があったり、何年も風呂に入らず自宅の外にまで異臭を放っていたりします。やがて同じフロアの住民が異常を感じるような状況になって、管理人や行政機関に相談に行きますが、なかなか介入ができない。賃貸であればまだ、大家さんに権限があり介入のしようもありますが、分譲マンションは難しいですね。結局、同じフロアの住人の方が耐えかねて出て行くしかなくなります。

私が受ける依頼でも、高層マンションなどの移送は本当に大変です。「飛び降りて死ぬ」と言われる可能性がありますから。ですが過去の相談においては、病気療養中や長期ひきこもりの子どもから「一人暮らししたい。マンションに住みたい」と言われて、別にマンションを買ってやって住まわせているような親が、けっこうな数います。マンションにはコンシェルジュがいて、本人がスマホで指示して必要なものを買わせたりしているわけです。これを「自立」と見る向きもありますが、精神疾患に罹患している場合、適切な治療を受けなければ良くなることはありません。強迫性障害や対人恐怖、不安障害などがあるケースでは、孤立することがかえって症状の悪化につながることもあります。やがてマンション内で迷惑行為をするようになり、その段になって親が相談に来ます。親は「本人のために良かれと思って」と言いますが、子どもを隔離して、問題に蓋をしているようなものです。
未成年のときに起こりがちなサイン

押川:いわゆる「心の筋肉が弱い」子どもに、未成年のときに起こりがちなサインとしては、重大な疾患はないのに微熱や腹痛が続くことや、自分で自分の髪の毛をぬいてしまう(抜毛症)、爪を変形するほど噛んでしまう、そういった身体症状としてのサインが現れることが多いです。
また、大人の顔色を伺う、それも子どもらしく正面を向いて見るんじゃなくて、横目でチラチラ見るような感じで大人を見る行為もサインの一つですね。親御さんにこれまでの経緯を振り返ってもらうと、問題行動や不登校に至る前には必ず何らかの変化、サインが子どもから発信されています。不登校はむしろ問題が顕在化した危機的状況であり、第三者を家庭に介入させなければいけない状況だと私はとらえています。こうなるもっと前にSOSを子どもが出しているのです。チックなどもそうですね。
私が視察調査で事前に本人を見るときは、「目」を見ます。たとえば、ゲームセンターに行くなど自分の好きなことをしているのに、楽しい目をしていないのです。でもそれがおかしいと気付かないんですよね、当事者の親は。ただ、やっと今時代が追い付いてきた感じがあって、私が言う事も段々理解してもらえるようになったのかなと感じます。
今や幼稚園でも見られる危機的状況
押川:そして今や幼稚園児が刃物を振り回したり、親に向かって「殺すぞ」と言ったり、お医者さんごっこをはるかに超えた性行為を行っているという時代です。園児が母親に「死ね」と言って刃物を向けたり、「何々ちゃんと、何々君はセックスをした」などと言いふらすような事態になっている幼稚園が存在するのです。そういう幼稚園の夏休み明けの地区の連合会とかでは、大変な議題になっています。このままでは園児が事件を起こすかもしれないと分かる事案があっても、幼稚園の先生も、どう対応していいか分からない。児童相談所もそういう子どもの保護のしかたが分からない。
こうした幼稚園の状況を聞いて、ちょっと私はもう、これは想像を絶したなと思いましたね。あとびっくりしたのは、今はもう幼稚園では、園児に殺されてしまうのでウサギとかの小動物は飼えなくなったそうです。低年齢化した危機的状況、これが私の中では最前線ですね。社会に伝えていかなければならないと思っています。原因をみていくと、やはりそういう子どものいる家庭では、親が刃物を振り回して子どもの前で夫婦げんかしているとか、性交渉を見せているんですね。これはある種の虐待です。しかし、幼稚園側がそういった子どもの親に対してアプローチしても、親自身何が問題なのかを理解できないと言っていました。モラルが崩壊している。親自身に躾がされていないのです。
そうした親のもとで育つと、総合的な知的思考力が育たず、欲求だけで動いてしまう人間がどんどん増えていくのではないかと危惧しています。こういったことも含めて本を書いてくれという依頼が幾つか来ているのですが、発端は「押川さんは親がおかしいということを言ってくれる人だ」と編集者が言ったことからです。そもそも「親がおかしい」と言うこと自体、幼児教育の現場ではタブーになってしまっているわけです。「その親自身も生育歴に問題があり、治療やカウンセリングが必要と思われるケースもあって、我々教育者の立場からは、安易に親がおかしいと言うことはできない」という。事態はそこまで進んでしまっています。